いまここに一枚の写真があるとしましょう。そこには宇宙空間に浮かんでいる青い星が写っています。そう、わたしたちのいる地球です。さて、その写真を見て、あなたは何を思いますか。
「地球は青い水と空気に囲まれた美しい星だ。この地球の美しさは、私たちの手で守らなくてはいけない。」
このような思いは誰もが抱くものではないでしょうか。誰も何の反論もできない、至極まっとうな意見です。でも、ちょっと待ってください。もう少し立ち止まって、想像力をはたらかせてみましょう。まず、その写真はいったいどうやって撮られたのでしょうか。そこでは何が起こっているのでしょうか。
間違いなくその写真は、有人であれ無人であれ、地球から宇宙空間へと打ち上げられたロケットから撮られています。外部から地球を撮影するために、一体どれほどの燃料が必要であるかを想像してみてください。また、例えば、「宇宙に人工物を打ち上げることは善か悪か」という問い。あるいは、極端なことを言わせてもらえば、「宇宙を『開発』するその費用を全部、地球の環境のために使えば、その思いはどれほどかなえられるのか」という問い。このような問いは、「科学的」「人類進歩」というスローガンの前では、何の効果ももたない「愚問」として扱われるでしょう。
確かに、科学技術の進歩は、私たちの生活に様々な恩恵を与えています。いま私も、電灯のしたで扇風機にあたりながら、パソコンのキーボードをたたき、液晶の画面に文字を表示させてこの原稿をつくっています。そしてつくり終えれば、それを電子メールで住職に送るつもりです。
と同時に、そうすることで私たちは、決して越えてはいけない敷居を、知らず知らずのうちに踏み越えてしまっているのではないでしょうか。決して目にすることができなかったものを目にした瞬間、それは、決して越えてはいけなかった境界線を越えてしまった瞬間なのではないでしょうか。いま、私たちに与えられているこの世界は、必ずしも自分たちがその意思で獲得したものと言い切れるでしょうか。一個人の思いや葛藤は、ささやかな想像力や善悪の判断は、得体の知れない怪物に飲み込まれていくかのようです。
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人類は、かつてなかったような歩幅で、かつては想像もできなかった境界線を次々に飛び越そうとしています。遺伝子工学の進展によるクローン技術とか、遺伝子組み換え食品とか、ES細胞を使った再生医療とか、ヒトゲノム解析とか、臓器移植とか、人工臓器とか。そこから見える眺めは素晴らしく、その景色を知らなかったときのことなど、きっとすぐに忘れ去られてしまうでしょう。
暴力的ともいえる犠牲の上で撮影された写真を手にしたときの「地球は美しい」という言葉には、人間の傲慢さをどこかに置き去りにしたまま、それを覆い隠してしまう危険性がはらんでいるように思われます。問いかけること、自分で考えてみること、立ち止まること、振り返ること。いま私たちは自分たちの足元を見つめてみる必要があるのではないでしょうか。
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人間の傲慢さがもっとも露呈する場面、それはいうまでもなく戦争においてです。あらゆる矛盾を正当化して人間は戦争をしてきました。「戦争によって平和がもたらされる」と。前の百年間で起こった戦争・紛争・内戦を挙げていけば、この紙面はすべて埋まってしまうでしょう。歴史の年表を見れば、人間は粛々と殺し合いをしてきたように見えます。「大人たちは私たちに、『仲良くしなさい』『人のことを思いやりなさい』『自分の部屋はきれいにしなさい』と教えます。けれども、どうして大人はそれをしないのですか。」子供にそう尋ねられたら、何と答えればいいのでしょうか。
それまで必死につくりあげてきた「道徳」や「倫理」は、戦争状態になれば何の断りもなく反故にされてしまいます。人は善と悪とのあわいに立つことは決して許されません。これは、人間が自分に対して行う裏切り行為といえるでしょう。
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なにも戦争という極限を持ち出すまでもなく、例えば、石油が流出した海で油まみれになった海鳥を見て、あるいは、細長い煙突から延々とはきだされる煙を見て、「善い」と思ってやってきたことが、とんでもない愚行であったと気付かされる瞬間。それは、すこし大げさに敷衍して言い換えれば、人間が積み上げてきたものがガラガラを音を立てて崩れていく、そんな瞬間の経験です。
最古の仏教経典の一つとも言われ、今もスリランカや東南アジアに、パーリという言語で伝わっている『ダンマ・パダ』という経典に、次のような一連の詩句があります。
「私を罵った」「私を傷つけた」「私を打ち負かした」「私の物を奪い去った」、とこのような思いに縛り付けられているならば、その人たちにとって、怨みは静まることはない。
「私を罵った」「私を傷つけた」「私を打ち負かした」「私の物を奪い去った」、とこのような思いに縛り付けられていないならば、その人たちにとって、怨みは静まる。
というのも、この世において、怨みによって怨みは決して静まらないからである。怨みのないことによって怨みは静まる。これは永遠の真理である。
釈尊は説きます。欲望の連鎖、怨みの連鎖を断ち切りなさいと。人間の歴史は、釈尊のこの呼びかけを、無視し続けてきた歴史といえるでしょう。
仏教は、二五〇〇年の長きにわたり、この地球上に存在してきました。これは、ひとつには仏教は何かしらの真理を教えてきたということであるかもしれません。しかし裏を返せば、二五〇〇年も前に釈尊その人が取り組んだ問題に、人々はほとんど変わりなく今も悩みつづけているということでしょう。
どうしようもない、ただ立ち尽くすしかないような状況の中で、悩み苦しんでいる人に対して、僧侶である私は何を語りかけることができるのでしょうか――仏教には本当に意味があるのでしょうか。
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かつて、先の『ダンマ・パダ』の詩句が、国際政治の場面で引用されたことがあります。それは第二次世界大戦後の一九五一(昭和二六)年、サンフランシスコでの対日平和条約の締結と調印のための会議における、セイロン(現スリランカ)政府代表の発言においてです。彼は言いました。「我々は幸いにも侵略は受けませんでしたが、空襲によって引き引き起された損害や、我国の主要産物のひとつである天然ゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります」と。しかし彼は次のように続けます。「我国はそうしようとは思いません。我々は釈尊の言葉を信じていますから」と。そして「怨みは怨みによっては止まず」という釈尊の言葉を引用したのです。
歴史の中のこの場面だけを切り取ってそれを美化しすぎることは、それこそ仏教者の傲慢となるでしょう。しかし、それでもやはりこの歴史的な出来事は、私に大きな驚きと、喜びと、そして勇気を与えてくれるものでした。仏教は、善と悪の二元論や、エゴとエゴとの対立や、怨み、憎しみ、悲しみ、絶望、その他すべての困難を乗り越えていくことができる道を示していてくれていると。それが具体的にはどういうことなのか、まだ私にはうまく表現することができません。しかし、私は信じています――仏教には意味があると。
【参考文献】
本稿は以下の本から大きな示唆を得ました。
・イバン・イリイチ『生きる意味―「システム」「責任」「生命」への批判』デイヴィッド・ケイリー編 高島和哉訳、藤原書店、二〇〇五年
・『百年の愚行』Think the Earth Project
・セヴァン・カリス・スズキ『あなたが世界を変える日―12歳の少女が環境サミットで語った伝説のスピーチ』ナマケモノ倶楽部 (翻訳)、学陽書房
また、『ダンマ・パダ』の翻訳はいくつかありますが、最も手軽で普及しているものに
・中村元(訳)『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫 |