現在、私は東京にある宗門の研究機関で仕事をさせていただいています。東京に住んで三年目になります。東京というところは、やはりと言うべきか、当然と言うべきか、それまで住んでいた名古屋あるいは京都という都市とは比べものにならないところです。
東京に住み始めてまず驚かされのは、人の多さでした。中央線というJRの沿線に住んでいるのですが、中央線は、その名の通り、東京駅からちょうど環状線の真ん中を横切り、新宿を通って立川、八王子方面へと伸びる路線です。朝のラッシュ時には、それこそ二、三分おきに電車がホームに入ってきます。そのすべてが既にスシ詰め状態なのです。私は、普段の通勤には中央線に乗り入れている別の路線を利用しているので、その「日本一混む路線」を直接体験することは少なくて済んでいますが、見ているだけでも、それは「異常」と感じざるを得ません。毎日それで通勤している人たちは、通勤するだけで精神をすり減らしているに違いありません。
また、東京の電車および地下鉄の路線の複雑さは、三年経ってもとても覚えきれず、今でも混乱するほどです。中心から離れればそれほどでもないのですが、二十三区内は地下鉄の路線が張りめぐらされ、特に環状線の中は、どの地点からでも、どの方向にでも、十分間も歩けば、かならずどこかの地下鉄の駅に行き当たる、と言われるほどです。
それほどの複雑さと混雑ですから、何らかの大小のトラブルは日常的に起こっているようです。「○○駅で車両トラブルのため、現在、○○線は前面運休しております」「○時○分頃起きました人身事故の影響で・・・」という類のアナウンスや電光掲示を、耳にしたり目にすることのない日の方が、少ないのではないかと思います。大したことのない電車の遅れでも、アナウンスは過剰です。「只今、3分の遅れをもって運行しております。お急ぎのところご迷惑をおかけしまして、まことに申し訳ありません。」これを何度も繰り返します。もともと5分か10分おきのダイヤであっても、です。多くの人に大きな影響が出るようなトラブルが発生した時、普段は感情を押し殺して黙々と目的地へ急ぐ人の群れが、一挙に殺伐とした雰囲気へと変わります。〈おいおい、何をしてくれているんだ〉〈こっちは仕事で急いでいるのに〉――決して口には出しませんが、そんな感情で車内は溢れかえります。電車が遅れたり、事故があったりすることも、確かに嫌なことなのですが、そのこと自体よりも私は、その殺伐とした空気になることの方が嫌いです。少なからず私もその中に巻き込まれたことがあるのですが、そんな時、私の感情もその殺伐とした空気の一成分となっていたことでしょう――〈やれやれ、またか〉と。
何だか東京の悪口ばかりを書いているようですが、とはいっても東京は日本のあらゆることの中心ですし(一極集中が過ぎるという意見にも賛成しますが)、いろいろと便利であることは事実です。しかし、先ほどの通勤地獄もしかり、地下鉄の路線の網の中で右往左往する私もしかり、明らかにいき過ぎた集中化が招いている負の面も、日々感じずにはいられないのが、東京というところで暮らす、いまの私の実感です。
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昨年のことです。千葉方面から東京方面へと河川をまたぐ送電線が、船の事故によって断ち切られ、東京都内が大停電となり、交通機関もマヒし、何百万という人の足に影響を及ぼしたことがありました。たまたま、私は名古屋に帰省中で、テレビでそのニュースを知りました。東京に住んでいなければ、特に自分とは関係のない出来事だったと思うのですが、その時の私は、東京に住んでいながらそれを外から見ているという、少し不思議な立場にいたということで、そのニュースをよく覚えています。
「都市生活の脆弱さ」ということは、台風、大雪、あるいは地震などの自然災害が起こるたびに繰り返し指摘されてきていることですが、その時、あるニュース番組のコメンテーターが、「油に浮いて、電気に動かされている社会」という旨の発言をしました。今という時代を端的に捉えている言葉として、とても印象に残っています。 |
話は変わりますが、「バイオ燃料」ということが話題に上るようになって、もう久しいと思います。バイオ燃料とは、トウモロコシやサトウキビなどの有機物を材料にしてつくられる燃料のことです。原料の植物は、生育段階で光合成をして二酸化炭素を吸収しているので、それを燃やしたときに二酸化炭素を排出しても、全体として二酸化炭素の量はプラスマイナスでゼロになります(少なくとも論理的にはそうなるらしいです)。また、石油は枯渇するのが心配ですが、植物にはその心配はないことなど、バイオ燃料は、現代そして今後、我々が直面するであろう危機を乗り越える救世主・・・なのかと思いきや、いいこと尽くめでは決してないようで、バイオ燃料が注目され、その分野の産業も急成長しているおかげで、原料となるトウモロコシなどの穀物の値段が上がり、またそれを飼料とする牛肉の値段が上がり、はたまたマヨネーズの値段も上がったり(とんだとばっちりですね)と、さすがにそう簡単にはいかないようです。
先日も、ニュースを見ていたら、バイオ燃料の原料となるトウモロコシや大豆の畑をつくるために、ブラジルの農民が焼畑をして森林を切り開き、森林が消失するスピードが近年アップしてきているという報道がされていました。その森林開発の多くが違法行為のようです。ただし、単純に、ブラジルの農民を非難することはできません。それは体のいい責任逃れだと思います。違法行為をしてでも畑をつくり、バイオ燃料の原料を買ってくれる先進国があるから、ブラジルの農民はそうするのです。地球環境の保全を推進させるべき先進国が、グローバル化の進む世界経済の中で、結果的に環境破壊を助長させていることは間違いないでしょう。環境によいからと注目され、開発・実用化されてきたバイオ燃料が、こともあろうか、さらなる環境破壊の一翼を担ってしまっているのです。つくづく人間の愚かさを感じずにはいられません。
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さて、取り留めのない雑感ばかりを書いてきましたが、私はこの文章に、「現代社会と仏教」という、大げさなタイトルを掲げています。いま直面している、現代の問題や、環境破壊に対して、果たして仏教はいかなる対応ができるのか、仏教の智慧はいかなる解決の糸口を見出せるのか、という意味です。これは大きな問題で、すぐに答えが見つかるようなものでもありません。
仏教の伝統が一貫して主張してきたこと、仏教の精神的な伝統は何かということ、それは、私たちの行動の原動力となり、そしてあらゆる苦悩の根本的な原因となっているのは、私たち一人ひとりの利己主義や自我意識や所有欲なのだ、ということだと思います。私たちは、自然環境破壊の時代を生きているのだ、その責任は我々一人ひとりにあるんだ、ということを正直に認め、それを厭い離れる心のあり方をもつ、そういう時がきていると思います。欲望や利己主義といったものを完全になくすことは不可能なのですが、いま現代にこの仏教の根本的な教えを応用しようとするのならば、そういうものをなくす方向の生き方を、少なくとも理想として探求していかなくてはいけないのだと思います。
仏教の経典は語りかけています。あなたたちは、欲望に突き動かされ、自我意識に縛り付けられてきた、それまでのあり方とはまったく違った新しい生き方を生きることができる存在なのだ、と。少なくとも、ブッダは我々がそうなることを願っています。
*本稿最後の部分は、私の大谷大学時代の恩師荒牧典俊先生の思想、ご著書に多くの示唆を受けていることを付記しておきます。
注:羽塚高照: (東京)親鸞仏教センター研究員 |