恵信尼と親鸞 | 山号お盆? 先祖供養懸魚空と0?

 
     

   






【新潟県中頸城郡板倉町山寺薬師209段の山道】

                                 
平成十六年六月恵信尼終焉の地とされる越後の坂倉町を訪れる機会がありました。
今から八十年ほど前の大正十年冬、西本願寺の蔵から、恵信尼晩年の建長八年(一二五六)から文永五年(一二六八)までの十二年間に、末娘の覚信尼に宛てた手紙である『恵信尼文書』と称される十数通の資料が発見され、親鸞は、教団が捏造した架空の人物との学会での論争に終止符が打たれた。

 『恵信尼文書』は、(父)親鸞と(母)恵信尼43歳の時に生まれた末娘の覚信尼から、1262年の暮れ12月20日すぎ、この越後の地に住む81歳の母親の恵信尼のもとヘ、一通の手紙が届いた。それは、「父親鸞が11月の28日、京で90歳で息を引きとった事を報じた」ものでした。それ以後度々、親鸞について、妻の恵信尼に「父親(親鸞)がはじめて悟りをひらかれた様子を、お母さんは、ご存知ですか?。ご存知でしたら、お知らせ下さい」覚信尼は、生前の父の面影を、年老いた母に問いつづけるのである。
 親鸞は、多分自分の娘の覚信尼にも、自らの体験などは、余り語る事はなかったのではないだろうか?。老いた母親の恵信尼は、いったいどんな気持ちで、この手紙を、読み。娘に返事を書いたのだろうか、当時の一般的な、女文字と言われた平仮名で書かれており、今でも、意味が、判然としないところもある。

          比叡山の堂僧親鸞

 今日の真宗史や、親鸞を語る場合には、必ず引用される資料であり、特に恵信尼文書 第三通の 「・・殿の比叡の山に堂僧おわしましける・・」と書かれた文書からは、親鸞の叡山時代の実像を知る事のできる唯一の資料である。
 即ち当時の日本での最高学府の叡山での親鸞の立場は、エリートではなくて、むしろ最下層の修行僧として位置づけられる堂僧と言われている。すなわち常行三昧堂で念仏を唱う音楽僧が、堂僧である。この堂僧の唱う念仏は、今に伝わる民間の融通念仏の前身に当たり、美しい節譜のある五楽章からなる壮大な合唱音楽であつたと言われている。この常行三昧の念仏は、阿弥陀如来の周りを、行道しながら唱う念仏であり、一刻(二時間)交代で、24時間連続して行われる。最初は、90日間の不断(切れ目ない)念仏であった。期間が長すぎる、あるいはこれを修する堂僧の負担軽減などから、21日間、7日間や三日間に、便利的短縮される事も、度々あったが、いずれにしても、この不断念仏は、自分の努力で、滅罪し、死後阿弥陀の極楽浄土に、往生する為の念仏であった事には間違いない。これは後世に、親鸞が、到達した、絶対他力の『念仏』とは全く異質の信仰である。教団宗祖としての親鸞が、こうした雑行雑修の念仏を、行っていた歴史的事実を、素直に認めたくない、風潮があるが、それは、人間親鸞が、信仰を確立していく課程の姿として捉えれば、何ら問題ないし、むしろ共感すら覚えるのである。
 この親鸞の「詠唱念仏(唱う念仏)」は、初期真宗教団では、好んで行われていたと推定できる内容の記述が、本願寺三代の覚如の書いた『改邪鈔』に出ている。そうした伝統は、本山の報恩講の最後の日に、御堂衆によって唱われる、『坂東節』に、その親鸞の叡山の堂僧時代を彷彿させる五音七声の念仏が残存した形であり、叡山の堂僧の唱っていた詠唱念仏を伝承したものに他ならないと、研究者からは言われている。

 元大谷大学教授五来重氏は、「親鸞は、叡山横川の常行堂の堂僧であり、美声の持ち主で、声明の達人であり、音曲に秀でており、越後に流罪になった折も、その二十年間叡山で会得した詠唱念仏の特技で、越後の各地で、不断念仏を修して生活の資に当てていたと」と推定されている。親鸞が流罪を許されて、関東に出向くまでの数年間は、この不断念仏の特技を生かして、善光寺の堂衆として滞在して、その交友関係、つまり善光寺聖の教線に沿って関東に行ったのではないかと、そうとすれば、関東の佐貫で、健保2年つまり親鸞四十二歳の時に、有名な千部の三部経読誦も、この善光寺における、不断念仏衆であった事実と無関係ではないと推定されている。

          越後の恵信尼と親鸞

 中世史を専門とされる、佐藤進一氏は、40年も前に、『古文書学入門』で「庄園史料はすべて支配者の文書だ。これで庄園の実態が本当にわかると思ったた大きな間違いをする」と提言されているが、そうした意味から言うと、今日の真宗・親鸞に関する研究史料も、ある意味では、教団・宗門側の文書である資料からでしか、語る事ができない制約を、頭に入れておく必要はあるが、この恵信尼についても、真宗及び教団の宗教的教理の枠に当てはめ、宗祖親鸞の妻として、ともに専修念仏の道を歩んだ理想的な夫婦としてのイメージをつくりあげて来た事も、否めない事実である。それは、何も恵信尼だけの事ではなくて、親鸞から義絶させられた親鸞の長男の善鸞にしても、真宗の教えとは違う異安心として、悪人のイメージがことさら誇張されて喧伝されている。
 恵信尼の結婚の場所についても、古来京都説や越後説の二説があるが、どちらが正しいのか決着がついていない。また恵信尼の出自説についても、越後(新潟県)の豪族、三善為則(為教)の息女である。越後の地方豪族ではなくて、京都の中流貴族であった指摘される学者もあるが、これも決定的な史料に欠け、資料の補助的な考察や論究で導きだされた結論と言えるので断定できない。
 従来は、親鸞は越後の国府に流罪されたとされているが、流罪と言っても、牢屋に監禁され、監視付きで、恵信尼との(結婚)生活をしたわけではなく、当時の流罪は、国境を越えなければ、自由に生活できた。何の資財ももたない親鸞が、畑を耕し、生活の資を得ていたとは考えにくい。当時の一般的な結婚は、いわゆる『婿取り婚』で、豪族として、それなりの資産を有していた恵信尼の実家で生活を送ったと考えられる。その恵信尼の実家は、越後(新潟県中頸城郡板倉町米増)と推定される。晩年、恵信尼と一緒に住んだ信蓮房や小黒女房。有房(益方)と称される三人の子の住んだ地名も、全てこの近くの地名である。
 この地は、妙高山麓で、妙高山を中心とする妙高山信仰すなわち、修験道の信仰圏である。板倉町の中心地から、東南に約八キロの地にある、山寺薬師は、千数百年前から山岳仏教の拠点として、三善一族の帰依をうけ山寺三千坊といわれたほどの一大勢力を有していた。樹齢700年以上の杉の木に囲まれた、209段の石段を上ったところにある薬師堂には、応永2年(1395)の墨書銘のある、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三尊像が、現在でも安置されている。その薬師堂の近くには栗沢信蓮坊が修業したと言われる聖の窟と言う洞窟があり当時の面影を残している。

 『恵信尼文書』(第十通)に
・・・・又、栗沢は、なに事やらん、のつみと申す山寺に不断念仏はじめ候わんずるに、なにごとやらん、せんし申すことの候うべきとかや申すげに候う。五条殿の御ためにと申し候うめり・・・・
とあり、つまり恵信尼(親鸞)の三男(又は二男)で、六十歳前後の年齢の栗沢信蓮房明信が、越後の野積の山寺で、父の親鸞が、叡山での常行三昧堂での、堂僧(念仏合唱僧)時代と同じく、不断念仏をはじめたと書かれている。越後での親鸞一家の生活は、叡山での常行堂不断念仏の堂僧をつとめた本場(叡山)仕込みの優れた能力を生かしながら、聖道や勧進で、越後の人々の信仰にまみれて生活していたと考えられるのは、越後に今に残る親鸞聖人の数々の伝説が物語っている。

           恵信尼終焉の地米増

 いずれにしても、親鸞が、関東を去り、京都に帰洛した理由・時期もあきらかでない。恵信尼は、夫親鸞には、同道しないで、継子善鸞と、末娘の覚信尼を除く、二男二女を伴って、越後に帰り、シングルマザーとして余生を送った事は、確かである。その生活の基盤となったのは、豪族の三善為教から相続した所領であつた事も確かと思われる。そしてこの越後の地で正確な年号は不明であるが、一生を終えている。
 『恵信尼文書』(意訳は石田瑞麿『親鸞とその妻の手紙』春秋社刊による)には、

     先年八十歳という年に、大病をして助かった時にも、八十
    三歳には、必ず死ぬものと思っていましたし、物知りの書
    いたものにも、同じように言ってあるとの事ですので、今年
    は死ぬものと思い切っておりますから 生きている時に、卒
    搭婆を建ててみたいものと、五重の石搭を 高さ七尺に誂
    えましたところ、 塔師も造ると申しますので、石ができて
    来次第建ててみたいと 思います・・・


 当時の平均寿命の倍近く生きた恵信尼が、大病をして、自分の死期が近い事を悟り、自分の生きている間に、自分の死後のお墓の五輪塔を建て、供養したいとの願いを持っていたのである。教団の御用学者が描く『恵信尼は、親鸞聖人の他力の念仏信仰の第一等の弟子』であった姿とは、異なる人間としての、弱さ悲しさを持ち合わせた、大宗教者の親鸞の妻の姿ではなくて、恵信尼の住んだ地域は、地滑を防ぐ為に、生きながら生き埋めになった僧の伝説にみられる様に、地滑りで世界的に有名な地域であり、また豪雪地帯でもあり。先述した様に、妙高修験道に深く関わりを有する地域であり、そうした信仰を肌で、恵信尼も体得していた事は十分想像できる、その地で文字通り、泥と土にまみれた、素面の恵信尼を見る気がする。

 生きている時に、自分の墓を建て、供養する事は、日本人にとっては、珍しい事ではない。そうした供養をする事で、自分の往生を確かなものし、同時に、残された余生を安楽に暮らせる様に願う。来世のみらなず現世の往生をも願うのが、日本人の素朴な信仰心であると思う。今でも『死んだつもりで・・・・する』などと言う言葉をよく使うが、それはまさにこの、生きている時に供養の墓を建てる日本人の宗教心から出た言葉である事は、間違いないのである。 
            




 ■参照文献
 五来重 『善光寺まいり』 平凡社
 佐藤正英『親鸞の核心をさぐる』 青土社
 石田瑞麿『親鸞とその妻の手紙』 春秋社


中頸城郡板倉町大字米増、恵信尼によって建てられた五輪塔
                     前に戻       【浄信寺通信平成16年夏号】より